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▼ラスト本門戒壇ノ大御本尊関連文献 [レス数16]
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[1] 投稿者:独学徒 投稿日:2007/02/11 19:37:10 130


京都要法寺日陽筆・祖師伝付録(影印)
赤線は便宜上、投稿者によって加えたものです。

富士宗学要集では、

『中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅』

と「板御本尊」と「紫宸殿」の間に「、」が打たれており、「板御本尊」が所謂「本門戒壇ノ大御本尊」を暗示しているようにも見えますが、本当は「中にも日本第一の板御本尊」は「紫宸殿の大曼荼羅」にかかっている文ではないでしょうか。

つまり日陽のいう「日本第一の板御本尊」とは、有師のころに彫刻された「紫宸殿の大曼荼羅」を指して言っているのではないでしょうか。




[2] 投稿者:犀角独歩 投稿日:2007/02/11 22:29:53 132


独学徒さん

有り難うございます。
この原文を探していたのですが、みつからないでいました。
このご指摘は、重要でした。
追って、ブログも訂正しようと思います。


[3] 投稿者:犀角独歩 投稿日:2007/02/12 07:23:41 134


独学徒さん

御霊宝等不残頂拝中ニモ日本第一ノ板御本尊紫宸殿ノ大曼荼羅□病息消滅ノ曼荼羅□其外曼荼羅□数幅御書…

という文章ですね。□で表した文字は、‘候’、もしくは‘矣’でしたか。また、それ以外の字でしたか。
富要で見ると

御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅、御書…

となっており、略されています。
しかし、これは文・句の畢りに置かれる文字だと思えます。
また、板‘本尊’で、あとは‘曼荼羅’と言い分けていますね。
この使い分けは、彫刻したものを本尊といい、紙幅を曼荼羅といっているようにも思えます。
大石寺には紫宸殿と称される彫刻はあったのでしたっけ。
日有がこれを彫刻したものは石山蔵でしたか。
いずれにしても意味は「日本第一の板本尊の、原本である紙幅の紙幅の紫宸殿の大曼荼羅」ということではないでしょうか。日本第一と賞賛されている板本尊の、その原本、聖祖真筆を拝謁できた感激を記しているように思えます。
日陽は、第82を模刻した板本尊も見たのかも知れませんが、何よりその原本である日蓮真筆紙幅の御筆曼荼羅にウエイトが置かれた記述ではないのかと思えました。彫刻がいかに豪奢でも、それは模刻で第二転です。日蓮が書いた真筆と比ぶべくもありません。模刻はいくらでも作れますが、真筆は唯1舗のみですから、その価値の差は天地雲泥の相違です。

独学徒さんが仰るとおり、ここでいう板本尊は紫宸殿大曼荼羅に係るのだと思えました。

なお、□を文・句の切れ目と考えると、「其外曼荼羅□数幅御書…」の‘数幅’は前の曼荼羅ではなく、後ろの御書に係るのではないかとも思えました。

有り難うございます。


[4] 投稿者:れん 投稿日:2007/02/15 19:29:52 137


要法寺日陽の祖師伝付録の中の「日本第一の板本尊」の一文の解釈につき、紫宸殿漫荼羅の摸刻板本尊であるとの御議論ですが、とすると、当家諸門流継図之事の中の「富士門徒大石寺継図之事」の文中の“板御本尊”も紫宸殿漫荼羅の摸刻ということなのでしょうか。祖師伝付録も日昌代の成立であり、当家諸門流継図之事も石山の継図において日昌を“当住”と明記しており、石山の記事本文については日昌石山在職中の成立であることが知られるので気になりました。この点御見解を御披瀝戴ければ幸甚です。

[5] 投稿者:独学徒 投稿日:2007/02/15 23:21:57 139


れんさん、
「当家諸門流継図之事」での『板御本尊』ですが、こちらは前後の文脈からは、「本門戒壇ノ大御本尊」を指しているように思えますね。
諸兄のご見解を願う次第です。


[6] 投稿者:れん 投稿日:2007/02/16 16:02:19 143


独学徒さん
御多忙のところ、御見解の御披瀝誠に有難うございます。
私も当家諸門流継図之事にしるされた板本尊については、石山の初代か二代目かの彫刻であると愚考しております。
当家諸門流継図之事も日昌の時代の成立であることは明らかなので、石山日昌の時代には彫刻は作成されていたことは確認できます。また日憲の見た彫刻が日昌時代には成立をみていた彫刻そのものであるならば、彰往考来さんの御意見の様に、日憲図によるかぎり、この時代の彫刻に関しては興師筆曼荼羅を原本にしたものの可能性もあろうと思います。もっとも、興師筆と同相貌の漫荼羅を九世日有までの石山歴代諸師が書写していることが確認できますから、この時代の彫刻の原本に関しては、石山歴代の漫荼羅の登用の可能性も視野に入れる必要もあるかもしれません。


[7] 投稿者:富士門 投稿日:2007/12/03 10:07:49 595


独学徒さん
新田小野寺家関連から発見しました。

【重道系川連小野寺氏】

つぎに小野寺重道です。この人物も出羽小野寺氏の始祖とされています。奥羽永慶軍記には小野寺道綱の四男「弥四郎重道」として登場します。稲川町史にもこの人物が始祖であるという旨が書かれていたのですが、当初わたしはこの人物は実在の可能性が低いのでは?と考えていました。しかし、先日稲庭川連訪問の際に町並みをに触れ、実在の人物である可能性を感じてきました。当地は川連漆器の名産で知られていますが、漆塗りは小野寺重道の弟道矩が始めたという伝承が根強く残されているのです。それに加えて宮城県栗駒郡(現栗原市)に残された「小野寺弥四郎」の記録です。
 この「小野寺弥四郎」の記録は安永風土記に残されているもので、宮城県栗駒郡金成町の普賢堂城に「小野寺弥四郎」がいたとのことです。諱といつの時代の人物かは特定できません。もしこの人物が「弥四郎重道」であるとすれば、重道の足跡が見えてきます。重道はおそらく三代秀道の四男「四郎道時」の子で、「弥四郎」と称したのではないでしょうか。重道は庶流であったため領地を東北に与えられ下野国から陸奥国へ下向。さらに山を越えて出羽国雄勝に移住したものと考えます。先の小野寺経道と重道は叔父と甥の関係になります。経道は稲庭に入ったのに対して、重道は川連にはいり川連氏を称したと考えます。川連氏関連の史料を申しあげれば、先述の1349年の文書の他に、1379年に「かハつらのいやし郎」の名が記された熊野関連の古文書が残されてます。川連氏の嫡流は代々「弥四郎」を称したようです。ここでも下野−陸奥−出羽のラインが完成されます。この川連氏が出羽小野寺氏の二系統目です。(2006.11.9掲載

大体、道郷争論時代の日行、日時師辺りの時代ですが、板本尊の「弥四郎国重」に似ていませんか?


[8] 投稿者:独学徒 投稿日:2007/12/03 22:02:37 598


富士門さん、

普賢堂城主には、確かに「小野寺弥四郎」の名が見えますが、私は「本門戒壇之願主」とは別の方だと思います。

むしろ『境持院日通筆「日蓮門下系図」』に登場する、「勢(熱)原弥四郎国重」の方が興味があるところです。
以下、ご参照下さい。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/



[9] 投稿者:富士門 投稿日:2007/12/04 01:29:11 599


独学徒さん
なるほど分かりました。他にも「弥三郎重光」説とか有るみたいですね。
しかし、そうすると大石寺は板本尊の「弥四郎国重」の説明を「波木井実長の子」とか「神四郎の元の名」とか「大聖人の心の中の人」と苦労してたんでしょうか?「日頂師の祖父」と簡単に説明出来たと思いますが?或るは、開山日興師でなく、5老僧の日頂師関係では、都合が悪かったのでしょうか?


[10] 投稿者:独学徒 投稿日:2007/12/04 21:59:04 600


富士門さん、
頂師は、「日順阿闍梨血脈」にて日興⇒日頂⇒日澄⇒日順という血脈譜が示されているように、重須においては一定の評価はあってしかるべきと思いますが、大石寺の開創以来、石門での頂師の活躍は見えませんね。
また「五人所破抄」では、五老僧の一人として破折の的になっています。
その意味では、六老の一人とはいえ、『本門戒壇之願主』の説明としては、石門側の立場から言えば、決して適任な存在とはいえないのでしょう。
小野寺弥四郎に関することも、地誌に登場する程度で、小野寺弥四郎に関する古文書・写本類などは無いようです。その意味では『境持院日通筆「日蓮門下系図」』等と比べ、確実性はかなり薄いと思えます。
現在管見に入った資料からでは、確実なことは何もいえない状況ですね。


[11] 投稿者:犀角独歩 投稿日:2007/12/05 04:37:20 601


横レス失礼します。
「日頂の祖父」というのは、どのような意味なのでしょうか。
日頂の養父は日常で、富木の出ですね。中山から北山へ、ですね。いうところの小野寺というのは日目の流れですね。
富木、小野寺、「祖父」、どのような脈絡での議論なのでしょうか。


[12] 投稿者:独学徒 投稿日:2007/12/05 20:00:49 602


犀角独歩さん、
富士門さんより、奥州の地誌関係資料に、目師と縁のある小野寺系統で、普賢堂城主「小野寺弥四郎」という名が見えることで、「本門戒壇之願主」と何か関係があるのではないかとのご投稿を戴きました。
そこで私の意見としまして、普賢堂城主の小野寺弥四郎よりも、『境持院日通筆「日蓮門下系図」』(http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/)に登場する、日頂の祖父にあたる「勢(熱)原弥四郎国重」の方が、ネーミングの一致としては興味があるという御返事をさせていただいての、ここまでの議論となっています。



[13] 投稿者: 投稿日:2007/12/05 21:58:01 603


独学徒さん

ありがとうございます。
了解しました。


[14] 投稿者:閑雪 投稿日:2008/04/09 00:27:46 1038


中山法華経寺蔵の聖人御難事と石山の戒壇御本尊の係わりはいかがでしょうか?出世の本懐は余は云々とあるように、戒壇の御本尊を指しているのでしょうか?

[15] 投稿者:れん 投稿日:2008/04/09 17:35:18 1039


閑雪さん

石山の板漫荼羅は、犀角独歩さんがかつて画像を用いて論証されたことで明らかになりましたとおり、弘安三年五月の日禅授与漫荼羅(日禅師に興師を通じて宗祖が大漫荼羅を授与されたことは日興真筆の“弟子分本尊目録”により明らかですが、現存のものは北山蔵のものは真筆とは鑑定されておらず、石山蔵も宗外の立正等の学術機関の鑑定を経ておらず、宗祖真筆でない可能性も高い)は使用した偽作・模造品であることが分かっていますので、これと聖人御難事を結びつけるのは、石山の我田引水の論理です。
宗祖の戒壇安置については明確に述べた真筆は残っておらず分かりませんが、真筆の曽谷入道殿許御書に「不空三蔵の還りて天竺に渡りて真言を捨てて漢土に来臨し、天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし等是なり」(平成新修396ページ)と述べていますので、もしかしたら、これに類したものの可能性もありましょうか?初期日興門流においては、重須談所第二代学頭の三位日順が本門心底抄に「行者既に出現し久成の定慧広宣流布せば本門の戒壇豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」(尊師実録と日代師の葦名阿闍梨御房御返事も同様の義を述べる)と述べますが、保田妙本寺第五代日伝師は大綱深秘抄に於いて戒壇院には法華経を安置することを述べています。が、時代が下りますと、室町後期の保田妙本寺三河日要師が四信五品抄草案私に「富士山に本門の戒壇を建立せん時、形像舎利を本尊にせず。且つ諸仏能開の未曾有の本尊を安置すべし」と述べたのを初見として、戒壇安置を大漫荼羅とする見解が日興門流の主流となっていく時系列が現存史料から読み取れるところです。
北山本門寺では日殿師の申状によりますと、裏書きに「日興上人授此本尊日蓮大事也、日蓮(花押)」とあった本門寺大堂本尊(安土桃山時代に西山本門寺日春の訴えを受けた武田氏による北山の重宝略奪により紛失)を戒壇本尊としていたので、石山が戒壇本尊として板漫荼羅を作成したのは、明らかに保田や北山の後追いということだと愚考します。ですから、石山のお板と聖人御難事は何の脈絡は無いと存じます。


[16] 投稿者:閑雪 投稿日:2008/04/09 19:14:13 1040


ご教示ありがとうございました、本門寺大堂本尊の件はじめてしりました。今後ともよろしくお願いします。

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